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タヒチの文化
- 概要
タヒチはポリネシアの遺産とフランスの文化が深く交わってるとても国際的な国です。文化的にも豊かな人々がたくさん集まっています。ポリネシアカルチャーセンターで働いているタヒチ人の多くは英語を第三言語、第四言語として学んでいます。現在タヒチの公用語はフランス語ですが、多くの家庭ではタヒチ語や他の島の言語も話されています。一般的に学生は学校で選択科目として英語を学びます。フランス文化とその影響が強く感じられる一方で、タヒチの人々は古代のポリネシアの遺産を誇りに思っています。
- 場所
タヒチはハワイから南東に約2,400マイルの場所に位置しています。ホノルルから飛行機で約5時間、ロサンゼルスからは約8時間かかります。タヒチは南アメリカとオーストラリアのほぼ中間に位置しています。
- 地理
フランス領ポリネシアは5つの諸島から構成されています。マーケサス諸島(マトゥイタ)、トゥアモトゥ諸島、ガンビエ諸島(マーアレヴァ)、ソシエテ諸島(トタイエテ)、そしてオーストラル諸島(トゥハア・パエ)です。タヒチはソシエテ諸島の中で最大の島であり、フランス領ポリネシアの首都であるパペーテが所在しています。
- 人口
2017年現在、フランス領ポリネシアの人口は28万人で、そのうち18万人がタヒチ島に住んでいます。
- 歴史と発見
タヒチの人々は他のポリネシア諸島と同様に口承の伝統を持っていたので、歴史は世代から世代へと物語を通じて伝えられてきました。最初のタヒチの入植者は西方のサモア諸島から来たと考えられています。タヒチの人々はその後ラロトンガやクック諸島、マーケサス諸島、最終的にはハワイを含む周辺の島々に入植していきました。 タヒチと最初に接触したヨーロッパ人として知られているのは、1767年に訪れたイギリスの船長サミュエル・ウォリスです。1768年にはフランスの航海者ルイ・ブーゲンヴィル、そして1769年にはイギリスの探検家ジェームズ・クック船長が続きました。1789年にはイギリスのウィリアム・ブライ船長と彼の副官フレッチャー・クリスチャンがHMSバウンティ号でタヒチに到着しました。 その後50年間に渡りイギリスとフランスはタヒチの島々の支配を巡って政治的交渉を続けましたが、1842年にフランスが植民地支配国として台頭しまし、マーケサス諸島がフランスに最初に併合されました。1847年にはタヒチのポマレ女王がフランスの保護を受け入れました。しかし1880年に世襲の指導者ポマレ5世が退位するまで、フランスがこの地域で完全な権力を握ることはありませんでした。60年間にわたり全部の島が一つずつフランスに譲渡され、1957年にこれらの南太平洋の島々は正式にフランス領ポリネシアとして知られるようになりました。
- 言語
フランス領ポリネシアの公用語はフランス語ですが、各諸島にはそれぞれの言語があります。ソシエテ諸島ではタヒチ語、または「レオ・タヒチ」が話されています。トゥアモトゥ諸島の最も一般的な言語は「レオ・パウモトゥ」と呼ばれ、7つの異なる方言があります。マーケサス諸島には「エオ・エナナ」と「エオ・エナタ」という2つの言語があります。マーアレヴァ諸島またはガンビエ諸島では「レオ・マーアレヴァ」という言語が話されています。最後に、オーストラル諸島またはトゥハア・パエには2つの言語と5つの方言があります。
- 村の生活
ポリネシアカルチャーセンターのタヒチ村にある家屋は伝統的な歴史的建築様式を表していますが、現代のタヒチ人のほとんどはヨーロッパ風の家に住んでいます。
ファレ・ポテエ (Fare Poteʻe)
ファレ・ポテエとは「円形の家」をという意味があります。この建築様式は首長や貴族のために用いられました。家のサイズが大きければ大きいほど所有者の地位が高いことを示します。首長の家財には大きな精緻に織られたマットや四脚の木製の椅子「ノホラア」、木製の枕「トゥルア」、また高床式のベッドがあります。伝統的にタヒチ人は床にアレツ草で作ったクッションを並べ、その上にマットを敷いて眠っていました。ファレ・ヘイヴァ (Fare Heiva)
テ・タフア・オリラア (Te Tahua Orira'a) はタヒチの「ダンスプラットフォーム」で村の中でもよく見える場所に作られます。古代のハワイ人も「フラマウンド」と呼ばれるものを建てる習慣がありました。ポリネシアカルチャーセンターのタヒチ村には文化的なプレゼンテーションを観覧しやすいようにするためのファレ・ヘイヴァの一部が作られています。 タヒチの伝統的な娯楽の一つはアリオイ (Arioi) と呼ばれる特別なダンスです。パフォーマーは船で湾から湾へ島から島へと渡り、ダンス、パントマイムドラマ、そして詠唱を披露します。彼らは通常、平和、農業、そして繁栄の神であるオロに敬意を表して演じました。 タヒチのダンス、「オリ・タヒチ 」(Ori Tahiti) には、アパリマ (Aparima)、ヒビナウ (Hivinau)、パオア (Paʻoa)、オテア (ʻOteʻa) の4つのスタイルがあります。ポリネシアンカルチャーセンターで働くタヒチ人たちは伝統的なオテアやドラムダンスを披露し、その中には優雅でありながらエネルギッシュなヒップシェイクのオリ・タヒチが含まれます。タヒチでは島全体で老若男女が楽しく踊ります。女性たちは「モレ」(ファイバースカート)を着用し見事なヒップの動きで観客を魅了します。熟練した女性ダンサーはパフォーマンス中に肩を静止して踊ることができます。 ダンスの魅力的なリズムは伝統的なトエレ (水平の木製ドラム)とファアテテ (直立した木製ドラム)によって作り出されます。複雑なリズムが見事に調和して、鼓舞されたダンサーたちが踊りだします。パフ とタリ・パラウはタヒチの最も重要な打楽器で、サメの皮で覆われており、それをドラムスティックで叩いて演奏します。古代のパフ・リマ は手で打たれていましたが、現在は一般的なドラムが使われています。これらの楽器はビボ(竹製の鼻笛)と共に神聖な儀式や王族の娯楽に使用されていました。現代のタヒチのダンスは、ヨーロッパの入植者によって導入されたギターとウクレレも特徴としています。ファレ・タウタイ (Fare Tautai)
海の近くに住むタヒチ人は竹で作られた「漁小屋」を持っていました。屋根は束ねたココナッツやサトウキビの葉で覆われており、漁小屋の中にはたくさんのものは置いてありませんでした。簡易ベッドがあることもありますが、大体は魚の罠が壁に掛けられているくらいです。その他にはベンチや椅子、釣り竿、魚を入れるためのひょうたん、網、ロープ、そして魚を捕るための道具が揃っていました。 タヒチの魚の罠は実際には魚を捕るためではなく生きたまま保存するために使われました。魚は釣り糸や網で最初に捕らえられ竹の罠の中に入れられます。その後扉を閉じて罠全体を水中に置き、プラウ(野生のハイビスカスの木)で彫られた浮きを使って半分浮かせておきます。毎晩漁師は道具を漁小屋の中に持ち込み修理や手入れを行い、翌朝の釣りに備えて準備をします。小さな漁小屋で漁師たちは釣りに行くタイミングを見計らいながら友人とおしゃべりをしたり、真珠貝を見守ったりして時間を過ごしました。 真珠の漁と真珠養殖はタヒチで盛んな事業となっています。中でも黒真珠の養殖が有名です。トゥアモトゥ諸島の暖かい水の流れるラグーンでは伝統的な真珠の床が現代技術と日本を含む海外の真珠ビジネスの専門家との協議によって再活性化されました。ボタン用の真珠貝もフランス領ポリネシアの重要な輸出品となっています。ファレ・トゥトゥ
タヒチの屋外キッチン「ファレ・トゥトゥ」は煙が主屋に入らないように部分的に開放された構造をしています。煙は貿易風によって閉じた後方から開放された前方に向かって吹き出されます。タヒチでは男性も女性も料理の仕事を分担していました。食材の準備はテーブルの後ろの方で行われました。 男性は野菜を集めたり豚や鳥を狩りに行ったり魚釣りなどより体力を要する料理の仕事を担当しました。女性は食材の準備を手伝いアヒマア(地中のオーブン)を準備しました。地中オーブンはほんとんどのポリネシアで使われている料理方法であり、タヒチではアヒマアと呼ばれます。タヒチ人はアヒマアを使って午前中に一度食事を準備していました。 アヒマアを作るには、まず深さ約1フィート程度の穴にたくさんの火山岩を置き、強い火で熱します。岩が赤く光るようになったら残った薪を取り除き岩を広げます。次に水分を多く含むバナナの茎の繊維をほぐして紐状にしたものを熱い岩の上に置きます。その上に一日分の食事用の食材を様々な葉に包んでバナナの繊維の上に置きます。パンの実、タロイモ、ウマラ(甘藷)、ウフィ(ヤム)、緑のバナナなどの野菜は削って皮をむき、他の食材と共に岩の上に配置します。その後野生のハイビスカスの葉で作られた特別なマットや古いマットを使って熱を閉じ込め蒸し焼きにします。マラエ
周囲を低い石壁で囲んだ広大な開けた場所をマラエと呼びます。そこは儀式を行う聖なる場所です。政治的な決定が行われたり、ゲストが来るときに歓迎する場所として使われたり、刺青の受け入れや養子縁組、結婚などの尊い首長の儀式が行われる場所でもあります。 - 豆知識
フランス領ポリネシアの主要な経済市場は観光業です。その他にも真珠と真珠貝、バニラ、コプラ生産、さらに漁業があります。
- 概要